どんなに堅固なお城でも、一旦、大軍に囲まれると、その多くは落城の運命が待っていた。
長篠城はその重圧を乗り越えた数少ない城である。
身分の低い鳥居強右衛門が、それを大きく支えた。
彼の働きを伝える歌がある。太平洋戦争前、東郷東小学校の春の運動会で歌われた「鳥居忠士」の歌である。
「援軍すでに間近しと、捕われながら叫びつつ、敵の刃に倒れしが、味方はすでに救われき」(三番)わが身を犠牲にしても、落城寸前の城兵に援軍情報を届けたかった彼の心が、江戸時代から昭和のはじめにかけての時代の流れに取り上げられたのである。
ここには、もう一人の使者がいたが、江戸時代を通していつのまにかその影を薄くした。
役目を見事に果たしながら無事生還した鈴木金七郎は、なぜか肩身が狭かった。
生死を分けた帰途の道筋も、それぞれの役割であったのだが・・・
鳥居強右衛門のろし場登り口