長篠城救援で、三万余の大軍を動員した織田信長は、長篠城手前七キロ程の設楽郷「極楽寺山」に本陣を構えた。山といっても小高い丘陵地である。
その南側に極楽寺があったといわれ、鎌倉期を示す布目瓦が出土しているが、信長布陣当時、寺はなかった。
五月十八日、着陣と共に信長は、ここから武田軍との決戦に向けての準備・作戦命令を次々に出している。
「連吾川沿いの馬防柵の構築」「相手を引付けて鉄炮を使う」「先陣は地元の徳川勢」「鳶ヶ巣砦の奇襲」などである。それらを伝える極楽寺軍議のこぼれ話として、酒井忠次の物語がある。
①酒井の物見報告だけが「武田方小勢」とあり、信長も喜び、諸将の前で忠次が「夷舞」を舞った。
②「鳶ヶ巣奇襲」を忠次が提案すると、信長は立腹したが、後刻、「先程の申分尤至極」と大いに面目を施した。
現在、近くの「古御堂ノ入」の地名だけが昔を偲ばせる。
連吾川戦線の景色