この地で戦いに敗れたのは武田勝頼であるが、合戦後四百余年の今なお地名に残るのは父・信玄の名である。
動乱にあけくれた戦国の世に、ひときわその名の高かった名将武田信玄は、その死後も諸国の武士に恐れられていた。設楽原の決戦で武田軍を敗走させた織田信長は、この機会を利用して「信玄、倒れる!」の知らせが広く伝わるであろうことを見込んで、討死した武田将兵の塚を「信玄塚」と呼んだ。「信玄」の地名が生まれたのはそれからまもなくのことである。
『東郷村沿革史』の慶安二年(一六四九)の項に、「柳田村より一戸、新下々村より五・六戸新道に沿ひ出郷」と記されている。
将軍家光に始まった鳳来寺道の改修と共に、信玄の町並ができた。
元禄時代には、「信玄塚町ハ竹広・柳田両村ノ出村也。四十年ハカリ此方信玄ト略シテ云」と伝えている。
信玄の町並(現在の竹広・八束穂)