織田信長の本陣の位置は、「設楽の郷、極楽寺山」と、信長自身の記録にあるが、地元文献の『長篠日記』や『続柳 』では「後ノ御陣場ハ川上村茶臼山」とある。
決戦当時、信長本陣が極楽寺山から茶臼山へ、いつ移動したのか記録はないが、茶臼山の稲荷社のすぐ近くに「織田信長戦地本陣」の石標が立ち、並ぶように「織田右府の歌碑」がある。
碑面の文字は、
「きつねなく声もうれしくきこゆなり
松風清き茶臼山がね
右 織田右府乃歌 小中村義象書」とある。
誰がこの歌を選び、誰が小中村義象氏(明治期の著名な国文学者)に揮亳を依頼したのか分からない
が、牛倉区帳面倉文書の「明治三十五年六月茶臼山地内織田公旧跡記念碑建設寄附帳」に「金参拾銭 石貳枚、小中村・加藤両君へ進上」とある。
二枚の拓本が揮亳者と当時石座神社宮司で大宮学校校長の加藤鉄五郎に贈ったものと思われる。
織田信長戦地本陣跡の石標