五月十八日、「織田・徳川」の連合軍が、長篠の手前一里(四キロ)程の設楽原に布陣したとき、
長篠城を囲む武田軍は対応に迷った。
・城を囲みながら、相手との決戦に向かうか
・囲みを解いて、一旦、相手の動きをみるか
武田の軍議は「瀧川を越えて決戦」を選んだ。
長篠側の武田本隊が、深い谷を渡る場所は限られており、「鵜の首」はその一つである。
横山と出沢の境界は、鵜の首・大淵・鮎滝・猿橋と呼ばれる峡谷地帯である。
この峡谷の一番上に何段もの滝があり発電所のダムが造られた。
そのすぐ下流のうねうねした谷の部分が「鵜の首」である。
鵜の首の右岸、出沢側の山ぎわに「猿橋の阿て」があり、そこから「藤生道」を経て設楽原に続く。
武田の右翼隊は、甲州流の土木技術で架けられた鵜の首の桟橋を渡って、決戦に向かった。
鵜の首(寒狭川)