夏目村(設楽六か村)ゆかりの夏目可敬が残した「参河国名所図絵」に、「勝楽寺と信玄塚方面」の詳しい絵図が描かれている。川路の勝楽寺は六百年程前に開かれ、設楽原とは縁の深い寺である。
天正三年の戦いでは、寺付近は最大の激戦地の一つであった。
(1)戦いの直前、住僧は寺の本尊を奉持して、豊川上流の椎平村(現・玖老勢地内)に戦火を避けた。現在も、椎平には勝楽寺の檀家が多い。
(2)決戦翌日、勝者の信長・家康はこの寺に立ち寄り、寺号の松楽寺を「勝楽寺」に改めるよう命じ、「古事也とて御帰陣」という。
(3)戦いの後、信玄塚の群蜂に悩まされた里人は、寺の玄賀和尚に相談し、戦死者の霊を鎮めるため鎮魂の松明を炊き、大施餓鬼会を行った。
今日の「火おんどり」は、このとき以来である。
設楽原戦没者霊場(勝楽寺)