武田四将の一人山縣三郎兵衛尉昌景の塚は、家康本陣を真正面に臨む山形高地の一角にある。
信長の記録は、次のように記し、彼の猛将ぶりを伝えている。
「一番、山縣三郎兵衛、推し太鼓を打ちて、懸かり来たり…」
一方、昌景は、織田・徳川連合軍とのここでの決戦を避けるべく、最後まで勝頼に進言した。
だが、主君勝頼の決断が総攻撃と決まると、進言した経験豊かな宿将たちと共に連合軍の銃火に立ち向かった。
馬防柵前で銃弾を浴びて倒れた彼を、従者の志村又右衛門は抱きかかえて後方に退き、手当てを尽くしたが昌景は息絶えた。
又右衛門はやむを得ず、遺体に後の供養を依頼する書状を置き、短刀「小烏丸」を添えると、首級をかかえ立ち去った。
※短刀は、太平洋戦争で供出。
戦い終わって戻ってきた村人は、遺体を懇ろに葬り、塚に印の松を植えた。以後、「胴切りの松」と呼んで、香華を手向けているが、現在の塚には檜の巨木がそびえ、付近の地名は「山形」である。
山縣三郎兵衛昌景之碑