長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

「昌胤」とは、武田軍の「原隼人佑昌胤」のことである。原家は代々武田譜代の重臣で、戦時には陣場奉行として、平時には土木技術に特技を持つ家として重きをなしていた。
甲府盆地の中央を流れる釜無川の暴流を防いでいる信玄堤も、普請奉行の原昌胤らが十六年を費やして完成させたものである。「将棋頭」「霞堤」の名前とともに、堤は今尚当時の姿をとどめている。
※碑文は「隼人佐」だが、甲州では「隼人佑」。
設楽原の決戦では、内藤昌豊らと中央隊の主力をなし、火縄銃の銃弾に倒れた。塚は信玄塚の南西百メートルほどのところにあり、「原隼人佐昌胤之碑(堤府川石)」の石碑と古い小石祠がある。

原隼人佐昌胤之碑

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