長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

設楽原の決戦は一日で終わったが、両軍合わせて一万五千という多くの命がこの地で失われた。
武田軍九千、織田・徳川連合軍六千といわれる。
戦火の収まった里に戻ってきた村人が目にしたのは、累々と横たわるおびただしい屍であった。
村人は、戦場に残った一部の侍とともに激戦の地の一角に、亡くなった将士を埋めて塚をつくった。
大きな二つの塚には、それぞれに小さな松を植えて異国に倒れた人たちの冥福を祈った。
・松の木は、村人の素朴な信仰心が、霊の依代と  して選んだ。
・信玄塚の名は、武田の終焉を宣言する信長の命名。(『長篠日記』)
時代を超えて巨木となった二本の松は、信玄塚の象徴として親しまれてきたが、昭和三十四年の伊勢湾台風で傷んだ大松は、五年後に枯れた。
雌雄の赤松・黒松がそびえていた小松も、昭和五十一年冬の大雪で赤松の幹が裂けて枯れると、寄り添っていた黒松も後を追うように四年後松くい虫で枯れてしまった。
現在の松はその子孫である。

昭和13年当時の大松と小松

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