天正三年五月二十一日、設楽原に残されたおびただしい戦死者の姿は、戦いの悲しさ・むなしさを村人に永く語りかけることになった。
戦い直後の村人による戦場の片付け・あちこちでの塚の建立に始まり、以後幾度となく陣没者の供養が古戦場の各地で行われてきた。
特に、翌月に信玄塚で行われた群蜂退治の松明たきと大施餓鬼、七月の家康主催の法要、数年後に行われた領主設楽家の両軍死者の供養塔建立、設楽家家臣丹沢氏による供養、毎年お盆の「竹広の火おんどり」など、江戸時代を通して「この地に倒れた戦国武人」の供養が続けられてきた。
その一つであるが、合戦三百五十年祭後の昭和の初め、八束穂「信玄病院」初代院長牧野文斎氏は供養の場所として信玄祖師堂を建てた。
東三河各地の教育関係者数百名の協力を得て、戦国陣没者の位牌を祖師堂に安置した。
その開堂入魂式に身延山第八一世杉田日布聖人を招いたので、沿道は高僧を迎える人々で埋まったといわれる。現在その位牌は、祖師堂から富士市本照寺を経て川路勝楽寺に祀られている。
勝楽寺の慰霊牌