長篠合戦と呼ばれてきたこの戦いが「戦国の流れを変えた」とされるのは、二つの理由(事情)からである。
一つは、長篠城救援の信長軍が設楽原で足を止め、圧倒的多数の火縄銃で相手に大打撃をあたえたからである。当時の信長の記録は「鉄炮ばかりを相加へ」と鉄炮(火縄銃)の戦いを伝えている。
もう一つは、その相手が東国の旗頭「武田軍」であったからである。
「風林火山」の旗印と「武田軍の騎馬」は近隣諸国にとって脅威の印であった。
設楽原から岐阜に帰った信長は、上杉謙信に宛てた手紙の中で「数年の鬱憤散らし候」と書いている。
武田の騎馬隊といっても、武田軍の大半は騎馬には乗っていない。
同様に、鉄炮が三千挺であったかどうかも確かなことは分からない。
ただ、信長が多くの鉄炮を用意し、鉄炮で勝利したことは確かである。
看板南西の馬防柵