長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

古戦場の土屋昌次については、二つの伝承がある。
・一つは、『家忠日記』が記す「土屋右衛門尉直村、遂に柵を破り勇を振て戦死す」である。
 『三河名所図絵』は「土屋、柵四度…柵際へ寄 鉄炮に中り死す」としている。
・慶長の『戦場考』では、「新間郷羽根といふ所に甲斐の忠臣主従の墓あり」として、土屋と従士温井の名を記している。
先は戦死の地であり、後は塚の位置である。最前線から離れた塚の位置まで、従者の温井が主を運んだのであろうか。
川中島の初陣以来、武田を守り続けた土屋昌次は、ここ設楽原で三一才の最期を遂げた。
二十才で参戦した弟の土屋惣蔵昌恒は、敗走の勝頼を守り、七年後の天目山(田野)まで終始武田を支え、筋を通した。

土屋右衛門尉昌次の墓

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