長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

夢を描く間もなく、戦場の露と消えた若武者の塚である。
武田家の重臣・高坂弾正昌信の嫡子、源五郎昌澄は、上杉謙信に備えて国元に残った父に代わって長篠城攻めに参戦した。甲州の記録『甲斐国志』は、昌澄について次のように記している。

・弾正ノ長男ナリ。長篠ノ攻メ手ニアリ。ウシロニ軍ヲ分チ、城兵ヲ圧スルノ備アリ。源五郎ソノ部ノ将トシテココニ戦死ス。

これによれば、武田主力の設楽原進出後も昌澄は長篠城監視隊として有海近辺で城に備え、討死している。
その昌澄の墓が、百六十年後の享保二十年八月、当時の家臣の子孫によって現在地の小川路に建てられたと、岩広村(富沢区)の庄屋の日記にあるが、この地に建てられた事情は謎である。
討死の場所が分からないのである。
そのせいか根府川石の大正碑がここに建てられたのは、碑が作られてから四十四年後の昭和三十一年である。
一説に、徳川方の稲生某が、このあたりに手厚く葬ったという。

高坂弾正一子・高坂源五郎の墓

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