「高坂弾正忠昌宣」は、天正三年の長篠出兵には出陣していない。当時、高坂は越後の上杉勢に備えて川中島の海津城にいた。
北信にいた高坂弾正は、烽火リレー等で武田軍の設楽原敗北を知り、八千の手勢とともに、敗軍の勝頼を南信の駒場に出迎えた。かねてより万一に備えて用意していた着衣・槍などで、傷ついた武田軍の姿を整え、甲府に帰陣させたといわれる。参戦しなかった高坂の役割であり、配慮であった。
小川路に塚…設楽原決戦にいなかった高坂の句は、設楽原をまもる会の手によって、嫡男源五郎昌澄の塚の横に立てられた。故里へ帰ることなくこの地に倒れた息子への、せめてもの報告のためである。
高坂昌澄の塚