昔から、負け戦で戦場を離れようとする大将の馬は、足が進まないという。武田勝頼の場合も、思わぬ敗戦となった設楽原から宮脇・浅木を経て出沢の藤生道を越え、滝川沿いの橋詰まで来た時、川を前にして馬が足を止め、そこから動こうとしなかった。
後ろから迫る敵の気配に、旗本の笠井肥後守満秀は押しつけるように自分の馬を勝頼に勧めた。ためらう主君を無理にわが馬に乗せ、別れの鞭をあてた。
主君・勝頼の馬が遠ざかるのを確かめると、殿(しんがり)の一員として追撃の敵軍と戦い、同じ剛の者として知られる出沢の滝川源右門助義と相討ちとなって倒れたといわれる。
笠井の子孫は、その後、大谷刑部に、関ヶ原以後は彦根藩井伊家に仕えて、戦後のひそやかな功名を伝えてきた。
瀧川助義・笠井肥後相討ノ地の石碑