農家の収穫の祝いは、最初に採れた農作物を初物と呼び、神と祖先に供げる儀礼をする。この儀礼は「農作物は神と祖先の贈り物」との信仰に基づいている。奥三河の農家は今でも、初物は先ず神棚と仏壇に供えた後に食べる。茄子・大根・山の栗や松茸は調理せず、蕎麦や小麦は麺にして供える。「初物は中気にならない(中気は中風とも言い、半身不随の病気)」と言われ、神棚・仏壇より下げた後は、年寄りに食べさせた。昔は、自家用に鶏を飼う家があったが、最初に産んだ卵の「初卵」は、中風の人々に贈る習慣があった。明治までは、米・卵・蜂の子・川魚など高カロリーの食料は薬の役割を担っていた。
奥三河では、大晦日・正月の御節料理も収穫の祝いのように扱われた。正月料理の食材は、家族全員が「禊」として食事の前に入浴し、身を清めた後に自宅で作った農産物を食べた。正月料理は、地方ごとに特色がある。今は歳末になると、デパートやスーパーで「御節」と称し、正月料理を販売する。オセチと言う言葉は、関西では大晦日の夜の食事、関東では大晦日・正月以外の節句の食事にも使う。最近は奥三河でも、関東型の解釈をする人々が多い。御節料理の基本は「煮しめ」で、食材を醤油と砂糖で煮染めたものを言う。大晦日の夜にいただく「オセチ」は、最近では既製品を購入して済ませる家が増加しているため、歳末の商店は大賑わいだ。
御節料理は、中国から伝わった風習だという。元来の御節料理は、年の瀬にくる歳神(正月様)に供える食事であり、神供の後は、神と人が共食(直会)をするのが本来の儀礼である。しかし、今は人を対象にした食事に変わり、個人の嗜好、つまり食べ物の好き嫌いによって、多種類より選択する料理が売られている。御節は元来、魚と野菜で作られるため肉は用いられなかったが、今は「何でもあり」の料理となり、肉・ハムの料理もある。
正月料理に欠かせない、餅・魚・酒の三品は歳神の好物といい、どの家でも神棚に供え、正月に食べた。古風な御節料理を伝える京都の食材は、茹でかちくり(栗金団に調理)・昆布巻き・てりごま・ゴボウ・ニンジン・レンコン・里芋・クワイと魚である。この資料は、「日本民俗辞典」より引用した。
奥三河の山村は、江戸時代の年貢帳や明治の記録を見れば、畑作が主で水田が少なかったことが分かる。そのため、畑と山で生産する農作物で正月料理を作った。奥三河の戦前の正月料理は、豆(黒豆・大豆の煮豆・焼き豆腐・油揚げ)と、蒟蒻・里芋・大根・栗と椎茸を食材に用いた。豆腐・蒟蒻は、十二月の末に主婦らが集まり共同で作り、家に持ち帰ったという。豆は縁起品で、奥三河には「マメ(忠実と書く)だ。マメな人」などの言葉があるが、マメとは元気で息災・労苦を厭わず働くの意味に使う。豆を食うことは「達者・元気になる」ことを意味し、縁起品を食い、活力をつける目的がある。小豆は祝いの赤飯、干し柿も「葉固め」の儀礼として食べられた。
里芋はかつて、奥三河の山村の主要な農作物だった。奥三河では、単に「芋」と呼び、祭や祝日には欠かせない食材だ。里芋の品種は「ヤツガシラ」で、煮染め・田楽・餅の雑煮と共に食べる。田楽は、胡桃・胡麻・生姜入り味噌で味付けされ、これらの作物の収穫祝いになっている。正月の雑煮は、餅と頭芋を食うが、雑煮の餅の下の横に頭芋を盛り付けたら、姑から叱られ、家風として「餅が最高の祝い品で、芋は二番目だから餅の下に芋を置くように」と、改めさせられたと言う。正月に数の子と八頭を食べるのは「子がたくさんできる」「集団の頭になる」ことへの祈願であり、近年は「家系がつながる」との願いをこめ、レンコンを食べるようになった。
奥三河の山村の御節料理は「お頭つき料理」と言い、かつてはこの地方の人々が魚に特別な思いを抱いていたことを想像させる。山村で手軽に入手できるのは、昔は川魚だ。今でも、鮎や山女の甘露煮が御節に出る。昭和初期までは、海から遠い奥三河の海魚は、干物・塩漬けであったと言う。ある老人の話では、物資の不足した戦後は鰯で、時代と共に秋刀魚、今は鯛になったと言う。鯛は「今日はメデタイ」の縁起食と説明する。今は、鰤を食べるが、鰤は幼魚から「ワカシ・イナダ・ワラサ」など、名を変える出世魚として喜ばれた。魚の加工品であるカマボコ・チクワ・ハンべンも、祝い品として食べた。以上の話は、作手地区の権田佐代子さんらに老人会の席上で聞いた。 |