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| 田峯城内乱の首塚(設楽町・田峯) |
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城主・菅沼定忠(小法師・新三郎・刑部少輔)は、天正三年(一五七五)長篠合戦に敗れた武田勝頼を一旦休息させるため田峯城へ案内した。しかし留守居の将である叔父・菅沼定直と次席家老・今泉道善(孫右衛門)などは、城門を堅く閉ざし開けようとせず、仕方なく勝頼を導き武節城に遁走した。その後、飯田に逃れて一年を経過する。
翌、天正四年(一五七六)七月十四日未明、菅沼定忠主従は、自分の城である田峯城を急襲し、前年の遺恨やるかた無く、老若男女幼少を問わず、手当たり次第に九十六名を惨殺する。
中でも主謀格の今泉道善(手習いの師匠)の生首を鋸で引き落とすという常軌を逸する殺害を行った。
主だった者の首をこの作手街道の辻に晒した。いつの頃からか、この場所を首塚と呼ぶようになった。
現在ここには、五輪の塔などが二十基あるが、それが誰の為のものであったか定かでない。石塔の型式上では、戦国時代から江戸時代前期にかけてのものと思われる。(案内版より) |
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