長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

連吾川一帯を見下ろす信玄台地の突き出た高台が天王山である。
古戦場のほぼ中央に位置し、連合軍の弾正山台地を目の前にするこの地が、
武田屈指の勇将・内藤昌豊の陣跡であり、塚の位置である。
内藤修理亮昌豊…信虎・信玄・勝頼の武田三代に仕え、川中島合戦以後、甲州軍の副将といわれた人物である。
西上野七郡の郡代として、箕輪城代を勤めていた。
この決戦では、武田方の中央隊として千五百の兵を率い、柳田前の激戦を六度戦い、一部ではあるが三重の柵を乗り越えたと『本多忠勝家武功聞書』が記している。
『信長公記』に、討ち取られた主な武田方武将の名が記されているが、昌豊の名はない。
敗色濃い戦況の中で、主君勝頼公の戦場離脱を祈りながら、
いのちをかけた昌豊の奮戦は五十二歳の最期となった。

内藤修理亮昌豊之碑

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